名作と言われる小説に触れられた、この経験自体は良かった。
ただ読後感は良くなかった。
チャーリィが賢くなり、それまで実は周囲に馬鹿にされていたこと知り、そしていつしか数カ月前の自分と同じ境遇の人を笑ってしまったこと、知能が高まるにつれて他人を尊敬する心を失いつつあったこと。
ただ”普通に”賢くなって、両親に褒められたい、”普通に”愛されたいだけだったチャーリィ。
この話は、自分がどんな人間かを浮き彫りにさせると感じた。
果たして自分より”下”の相手を決めつけて安堵したりしたことは一度もないと誓えるだろうか。
直接的ではなくとも、他者を攻撃したことはないだろうか。
自分より”上”の存在に嫉妬や焦りを感じたことはなかっただろうか。
思い通りにならない相手を何としても動かそうとした経験は、失望は、驕りは…。
チャーリィの手術が終わり、周囲との関係性に変化が生まれ始めたころから、正直読むのがつらくなった。
しかし結末が気になって一気に読んだ。
読み終わってただただ暗い気分になった。
読み手の人生観、死生観、これまでの人間関係、環境…などによって、この小説への感想は変わると思う。
チャーリィの経過報告書が終わりに近づくにつれ、私は涙が止まらなかった。
それはチャーリィへの同情でも感動でもなく、自分が畏怖するものを直接目の当たりにさせられたからだ。
”わたし”というものが消えたら、どうなってしまうのだろう。
チャーリィは幼いチャーリィと手を取り合えたのだろうか。
ずっと窓の内側から賢くなったチャーリィを見ていた幼いチャーリィ。科学の力で高い知能を手に入れたとて過去に生きてきたチャーリィがいなかった事にはならない。
チャーリィは生まれた時からチャーリィ・ゴードンと言う人間であったはずだ。
その人を”その人”たらしめる要素は一体何なのだろう。
チャーリィは手術により急激に高い知能を手に入れ、そして急速に失った。
けれど、最後の報告書を読む限り、少なくとも愛した人たちに迷惑をかけたくないと、憐れまれたくないというチャーリィは手術を受ける前の彼とは違う。期待ではなく希望をもっていたと思いたい。思いたいだけ。
元の知能に戻る中でも彼は「自分の意思で」行き先を決められたのだ。
きっと心から愛し合ったアリスとの思い出は消えていても、どこかには残っていると…思いたい。
「キニアンせんせい」の文字列を目にしたとき、無性に涙があふれてきた。
悲劇ととらえるか、ハッピーエンドととらえるか、人それぞれだろう。
私は、幼少期からどこで植え付けられたのか分からないが「死」というものが大層怖かった。
覚えてる限り3歳のころには怖かった。若くして亡くなった祖母のお葬式、静まり返った部屋でゆっくり揺れるお線香の煙。
敷物の上で動かない祖母。(自宅葬だった)
消えてなくなるというのが、今でも怖い。
未知への恐怖。
高校時代に同級生にこの話をしたのだけれど、一人を除いて共感してもらえなかった。
ボケることも同じくらい怖い。老化は死への恐怖を薄れさせるというが、果たして本当なのか。
昔、末期がんの方の担当医が書いたエッセイを読んだ際、高齢の方でそれまで生きる希望に湧いていたのに、いよいよとなったとき「死にたくない、死にたくない」と先生に縋りつく描写があり、背筋が凍った。
もうタイトルも覚えていない。そのシーンだけ覚えている。
考えても仕方ないことだし、せわしなく生きている中では、最近は、忘れていたのだ。
忘れていたというより脳の奥へしまっていた。考えないようにしていた。
なのに「アルジャーノンに花束を」を読んだことで、自分が怖がっているものを再確認させられ、気分が落ち込んだ。
それくらいよく練られた話だった。
そんな話じゃないよ、と怒る人がいるかもしれない。
私はこう思った、それだけです。
最後に、チャーリィにも花束を添えてくれる人がいると信じたい。
心の中でもいい、彼の友人や愛した人は、彼の論文を読んだ人は花を添えてほしい。
それが多分、私にとってハッピーエンドになるはずだから。
蛇足
アルジャーノンの最高知能指数はどの程度だったのでしょうね。
もし人並みの思考力が生まれていたら…アルジャーノンは賢くなりたいと思ってなかっただろうに。